選ばれなかった物語達の墓場のことを思う概念
日々生きていく中で多かれ少なかれ選択の機会に迫られることって多いですよね?
しんどいですよね?
私もしんどいです。概念です。
ランチで何を食べるか?何を着るか?休日は何をして過ごすか?
そういう些細なレベルのものから、就職、恋愛、結婚などある程度その後の人生が規定されかねない大きなレベルのものまで、それはもうしんどいかと思います。
基本的に私は何も考えずストレスフリーな毎日を送りたいと切に願いながら過ごしているにもかかわらず、それでも選択の機会は寄せては返す波の如く、日々私を悩ませ、ストレスを蓄積していきます。
しかし一般論として、そういった人それぞれの選択の結果でしか自分というものを規定できないというのもまた事実ではあります。
要するに、自由な意志としての選択の結果の蓄積でしか、自分を他人と違うものとして認識することって難しいと思うわけです。
まぁそういう恥ずかしい話は置いておいて、私はよくアニメを見るわけです。
選ばれた物語と選ばれなかった物語
いきなり話がアニメの話になりますが、ここから話すのは全般的なアニメの話ではなく、アニメの物語(ストーリー)の話になります。
ざっくばらんに分けると、アニメの物語の種類はその成り立ちとしては以下の4つのパターンに分けられるかと思います。
- オリジナル
- コミック原作
- ライトノベル原作
- ゲーム(主に18禁含むノベルゲーム)原作
オリジナルはアニメが初出となるもので、その他はそれぞれのジャンルである程度人気が出た上でアニメ化されるという形式をとるものです。
基本的には後者の原作ありきのものの方が比率としては高く(元々人気作なので諸々の想定がたてやすい)、オリジナルの数はあまり多くありません。
で、私は基本オリジナル作品は見るようにしつつ、原作ものは事前に嗜好が合うかどうかを確かめつつ見るようにしています。
しかし、原作ものの中でも、ゲーム原作のものはあまり前評判関係なく見るように心がけています。
それはなぜか、というのが最初のほうの恥ずかしい選択云々の話と関わってくるのですが、ゲーム原作ものをとりあえずノベルゲームと限定してしまうと、一部の例外を除き、ノベルゲームは進行上選択肢が生じます。
で、その選択肢に沿ってゲームを進めるなかで、様々なイベントが発生し、有限ではありますが複数のエンディングのどれかに到達する形になります。
つまり、そのイベントとエンディングの組み合わせ分、ノベルゲームは元々複数の物語を孕んだ、物語の集合体として捉える必要があるというわけです。
そこが他の原作ものとは大きく違っている点でして、ゲーム原作を元にアニメを作る場合、制作者もゲーム内のイベントの中からいくつかを選択し、最終的なエンディングを決定した上で、元々複数の物語の集合体だったものを、一つの物語に規定する必要があります。
要するにメタ的な視点での選択肢を消化した上で、何かを残し、何かは捨てなければならないわけです。
多くのノベルゲーム、しかもアニメ化のほとんどを占めるギャルゲー(おおざっぱに言うと、複数の女の子が登場し、その中の一人と結ばれるもの)では、一人の女の子は選ばれて、その他の女の子は選ばれないわけです。
その捨てられてしまった物語達(彼女達)は、事前に発売されているゲームの中では、人によっては選ばれるべき物語であり、その物語が存在することももちろんゲームを既に遊んでいる人は知っています。
よって、通常の物語では見えない、制作者の頭の中にあるはずだけの捨てられた物語が、ゲーム原作のアニメでは選ばれた物語以上に露出してしまいます。
物語を擬似的な人生の集約として考えた時、これほど切ないことってなかなかないんじゃないでしょうか。
もしも、実際の人生で捨ててしまった選択肢の全てが、その結果も含めて分かっているとしたら、その時選んでしまった選択肢に対する疑念や後悔は今の何倍以上にもなるでしょう。あの時こっちを選んでいたら、、、のこっちの結果が、結局は分からないからなんとか踏みとどめていられるわけで、その結果まで分かっていたら正直自分は何も選べる気がしません。
そして、ともすればその捨ててしまった選択肢のことは忘れがちでもあります。
と、本当は今やっている『WHITE ALBUM2』めちゃいいよねーと書こうと思ったら長々とどうでもいいことを書いてしまいました。
『WHITE ALBUM2』は私が個人的に執着している典型的な3角関係の物語でもありますので、そのへんの話はまた機会があれば書きたいです。
お疲れ様でした。